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剣道という武道は選手が跳んだ瞬間に勝敗が決する、と語ったなら人は驚くだろうか。私が目撃した選手たちは、上段から或いは中段から竹刀を振り下ろす音速と共に、確かに跳んでいたのである。
これから物語ろうとする剣道、それとの再会が、ひとりの日本人の歩もうとする道を照らす手助けをする。それはいま始まったばかりの出来事でありこれからが勝負の時であろうけれど、彼に剣道がなかったならば別の過程が待っていたに違いない。
雷雨で川が氾濫した翌日、突然の光りが街を照らした。湖面から天空に上昇する大噴水に太陽の光線が反射し虹を描き出した。虹は旧約聖書の中で神がノアに語るひとつの契約の証である。長い月日の大雨による苦難から救済するために、二度と大洪水を起こさせないよう、雨が上がった空に虹を出現させた。それが約束の信号であるという。
人は生きていく中で幾つもの約束を重ねていく。それは守られる約束もあれば反古にされるそれもある。それでも人は誰かと約束をしてしまうし、そうしたいと望んでさえもいる。でも自分が約束したことさえ忘れてしまった時に守られていたことを知ったなら、生涯に渡ってそのものを大切にしようと心に誓うだろう。
これから紹介する彼、宮林隆元(27歳)にとって剣道が守られた約束の証だった。彼は8歳から剣道を始めて20歳まで日本の道場に通う。料理人になろうとしていた彼は、料理学校を卒業後東京の某フランスレストランに就職する。休みなどないほどに働いた結果、自然に道場への足が遠のく。淡々と過ぎていく日常と仕事に誠実であろうとする自分。確かに仕事は望んでいた職業に就けた。ある意味で充実した日々を重ねているようにも思えた。それでも自分の何かが日々削られて行く実感が後追いしてくる。
それが一種のセンチメンタリズムであったと知っていても、人はやり切れない思いに時に駆られてしまうものだ。ある日家族はそんな彼を見てフランスに料理の勉強をしに行くように助言した。料理長に相談したところジュネーヴの日本料理店で板前を募集していること、更に生活を保証してくれるという情報を得た。希望する料理の種類は違うけれど、まずひとつの足がかりになると思ってジュネーヴに旅立つことにした。
最初の計画は働きながら語学学校に通ってフランス語を身につける手はずだった。誰もが考えるように物事はそんなに簡単にお手軽に進むものではない。欧州の日本料理店に勤めることは、お客の殆どは日本人ではないが、実際は日本語しか使う機会がないし、フランス語学校に通う時間も与えられない。料理人見習いでやって来た彼の滞在許可年数は約1年半。その間に希望したフランス料理店の勤めの口を探さなければならないし、滞在許可を延長するためには語学学校に通わなければ認可が下りない。
色々と思案している内に時間だけが過ぎていったある日、偶々知り合った人にジュネーヴで剣道の道場があることを聞かされる。道場と言っても、地元の小学校の体育館を借りての練習場である。一度稽古を見てみようと思い立った彼は、疑心暗疑のまま足を運んだ。駅からバスで10分位の郊外にある体育館の中に入った時、何人もの叫び声が連呼し竹刀のぶつかる衝撃音が鳴り響いてきた。その場所で行われているのは、紛れもなく自分が日本でやっていた、そして一度遠ざかってしまった剣道そのものだった。子供の頃、楽しみのひとつで、レストランに就職して知らず知らずの内に忘れかけていた、いや、決して忘れていなかったもの。「蹲踞(そんきょ)」「面」「小手」「礼」という聞き慣れた反復される日本語。ジュネーヴでの彼の道場通いはもうその時に決められていた。
彼の所属する剣道クラブはシュンドウ館といって、大人が約20名、子供が約15名からなる。スイス代表のコーチが指導に当たっていて、男子の在籍者の中には代表選手が3名、更に女子が1名所属する。スイスの各都市にはそれぞれひとつの剣道クラブがあって、一年に数回の大会が開かれる。それには隣接国のフランス、イタリア、ドイツのクラブも参加する。もちろん、フランスやイタリアでも大会が行われスイスのクラブも遠征する。大会の個人戦は有段者かそうでない選手に区分されて行われ公式ルールに則って3本勝負で為される。
2002年2月10日スイス国バーゼル市で開催された剣道のスイス大会が、彼にとって今年の最初の試合だった。個人戦は約60名が幾つかのグループに振り分けられ、その中で上位2名が決勝トーナメントに進出する。団体戦は5名で組織される勝ち上がり方式である。
彼の所属するシュンドウ館にはスイス代表のイアニス(28歳)が在籍し主将を努める。個人戦準々決勝で15分の延長の末に勝利を手に入れたイアニスは、すぐに団体の2回戦に備えなければならなかった。この試合は先鋒以下引き分けに持ち込まれ副将宮林に順番が回ってくる。彼は難なく相手を斥けるが、個人戦での疲労を引きずった主将イアニスは惜敗してしまう。
1勝1敗3引き分けの結果延長戦にもつれ込んだ試合は、一対一の代表者同士での最終決戦で決着をつける。普通ならばイアニスが登場するのだが、過度の疲労から自分が十分に戦えないことを悟って宮林に声をかけた。
「お前が代わりに戦ってくれ」
宮林は、ゆっくりと蹲踞の姿勢に入った。剣道の強さの見分け方は、蹲踞の姿勢で分かるという。この試合は識者が見れば蹲踞の時点で勝敗を言い当てられたかもしれないほど、明らかに両者の常態そのものに差異があった。あらゆるものが静寂に潜みすべての存在が止まって見える。自分の息づかいさえも無音の世界。
「延長戦での相手はイアニスを倒した選手だったのですが、彼が自分に勝負を託したことでかなり気合いが入っていました。今までぼくがやってきた試合の中でも三本指に入るくらい気合いが入っていました。そして試合場に入った時には驚くほど落ち着いていました。そして驚くほど無心でした。今考えると、こういう状態になれたことが不思議で、ベストなコンディションでした」
1本勝負で決着がつく延長戦で、彼は相手が打とうとした瞬間に小手が無防御になるところを狙い打ちし、驚異的な速さで竹刀を振り下ろした。圧倒的で完璧な勝利を手にした宮林の好調さも手伝って、シュンドウ館は団体戦を準優勝で飾る。
今年に入って宮林はスイス、フランス、イタリアで4つの大会に出場している。彼の個人・団体戦での個別の成績は18勝6敗と好成績を残す。しかし昨年までは3勝7敗2引き分けと苦しい結果に終わっている。なぜ彼が今年になって好結果を残せるようになったのだろうか。それにはふたつの秘密があった。
(2)へ続く…
Reported by 川本ミツル
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