朝原宣治
Nobuharu Asahara
陸上男子100メートル |
プロフィール |
100分の1秒を争う究極の世界に身を置き続けてきた朝原宣治選手は今、今年8月開幕の世界選手権大阪大会に向けて黙々と調整を続けている。アテネ五輪では男子400メートルリレーのアンカーを務め、日本チームを五輪史上最高の4位に導いた。あの感動から2年あまり。何度も引退を噂されながら走り続ける34歳のスプリンターは、大阪の夢舞台にどんな決意で臨むのだろうか。
文=城島 充
写真=星乃 滋
―改めて来歴から。中学時代はハンドボールで全国大会に出られたとか。
朝原 そうです。サッカー部に入りたかったんですが、中学になくて。やるからには強いチームでやりたくて厳しい指導者がいる部に入ったのですが、自分には厳しい部活のスタイルはあわなかったですね。高校時代はサッカー部に入ったのですが、これもあわない。それで友人に誘われて陸上部へ移ったんですが、これがなかなかいい雰囲気だったんです。『今日は雨やから練習やめとこか』みたいな(笑)。
―3年生の時は走り幅跳びでインターハイで優勝されています。
朝原 でも、陸上を始めたときは全然ダメでした。足が速いのにはそれなりに自信がありましたが、スパイクなんて履いたことなかったもんですから。ハンドボールをやってたのでやり投げをやらされたこともありました。少しずつ強くなって、神戸市や兵庫県の強化合宿なんかに参加するようになってからですね。狭かった視野が少しずつ広くなっていったのは。
―視野を広めるという意味では、95年からトレーニングの拠点をドイツに移されましたね。
朝原 海外で練習したい気持ちは昔からありました。アメリカでもよかったのですが、向こうの黒人選手なんかはものすごい才能が先天的にあって、たまたま相性のいい指導者とめぐりあって成功したりする。自分が行ってもごろごろいる才能の一つにすぎない。それは少し違うだろうな、と思いました。ドイツには幅跳びの優秀な指導者もいましたから。
―ドイツでの生活はどんな感じでしたか。得たものはいろいろあったと思います。
朝原 コーチが探してくれた物件が、病院に付設した看護士さんの寮のなかの一室で『フランケンハウス』って呼ばれている部屋だったんです。すぐ引っ越そうと思っていましたが、怪我をしてもすぐ治療できるからいいかって最後までそこにいました(笑)。ヨーロッパの練習環境で一番印象に残っているのは、トップレベルはもちろんですが、その一歩手前のレベルにいる選手たちへのサポートの厚さですね。それに草試合というと変ですが、ホットドッグの屋台なんかが並ぶ、のどかな雰囲気のなかで開かれる競技大会に積極的に参加したことも思い出の一つです。結構、いろんなところで大会記録を作ってるんですよ。
―ドイツで力をつけ、どんどん記録をのばしていたころ、怪我に苦しみますね。
朝原 あのころは悪循環でした。違和感を感じていても、いい流れを止めずにキープしたいので怪我をしている自分を認めたくなかったんです。痛み止めの注射や消炎剤でごまかして跳んでいましたが、痛みをかばっているとバランスが悪くなる。するといろんなところに影響が出てしまいます。最初は右の太ももの裏が痛くなって、そこをかばって走っていると、今度は左が痛くなる。最後は右足首を骨折してしまいました。
―幅跳びで踏み切る足ですね。でも、その怪我が本格的に100メートルに挑戦するきっかけになるんですよね。
朝原 そうです。右足首が完治してちゃんと踏み切れるようになるまでスプリントの練習をしてたんですが、なおったころにはもう、幅跳びをやりたいという気持ちがわいてこなかったんです。すっかりスプリントの面白さに惹かれていたんですね。
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