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その日、競技場で予定していた撮影は許可が下りなかった。どうにか探し当てた撮影スタジオはタクシーで15分ほどの距離。見知らぬインタビュアーとカメラマンについていくのは勇気が必要だったに違いない。それでも野口みずきはニコッとして、
「いいですよ」
と応えてくれた。アテネ・オリンピックの前年、2003年の秋、京都でのことだった。
京都市内をタクシーで走っている間、彼女とずいぶん話をした。印象的だったのは、「写真に興味があるんです」というひと言だった。取材をする人間と話を合わせられる選手はそう多くない。共通の話題を探すのは結構むずかしい。きっと、気を遣っていたのだろう。ハッキリしているのは、気を遣えるというのは「大人」である証拠だ。
アスリートの中には、取材を流れ作業のようにこなしていく人もいる。分刻みで仕事が入っているからやむを得ないのだ。しかし野口みずきは何気ない会話がきちんとできる大人の女性だった。おそらく相手によって話題を変えられる器用な部分も持っているに違いないと思った。賢い人だな、という印象を受けた。
マラソンは賢くなければ勝てないと思う。強靭な肉体、そして精神力は勝者の前提条件である。そこに戦略という要素が入ってくる。アテネ・オリンピックのレース、野口が中盤から仕掛けた戦略は見事という他なかった。誰もスパートしてこないだろう地点で仕掛け、そのまま逃げ切った。他の参加選手全員を丸ごと出し抜いたのである。日本人として、こんな痛快なことはなかった。
アテネでの中盤からの逃走劇も、彼女が「大人」だったからできたことだと思う。ひとりで走るのは孤独でもあるし、勇気がいる。後半をひとりで走りきった精神力と体力(レース後の様子を見ていると、限界まで追い込んでいたのが分かる)は、感動的だった。
取材したとき、もうひとつ印象的なエピソードがあった。レース後の楽しみは、お酒だと話してくれたのである。
レース前は3ヶ月以上にも渡って禁酒の状態がつづく。ストイックな生活をおくり、そして42.195kmという長丁場を走るのだ。開放感に浸ったあとのお酒はさぞ美味しかろう。しかもそれが勝利の美酒ならば、最高だ。
「パリの世界陸上のあとに飲んだワインがおいしかったですね。産地はちょっと覚えていないんですけれど」
アテネの夜の祝杯はどんなだったのだろう。今度会ったら、何を飲んだかぜひ聞いてみようと思っている。
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