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バレーボールの取材をしていて、驚いたことがあった。全日本のある若手選手がユニフォームのまま、記者会見に出席しようとした。それを見た全日本チームの主将、吉原知子は一喝した。
「ダメじゃない、着替えないと」
記者の目の前である。公衆の面前である。しかし吉原はまったく正しいことをした。全日本女子にチームには約束事があったからだ。記者会見にはトレーニング・ウェアに着替えて出席し、会見が終わったら、そのままバスに乗る手筈になっていたのだ。
若手選手は着替えに戻り、記者会見は何事もなかったかのように続いた。チーム内における吉原の存在感が見えたような気がした。
吉原は、試合中の形相から「夜叉」と呼ばれることもある。昨年、日本で開かれたワールドカップで全日本女子は復活の手がかりをつかんだが、久々に全日本に復帰し、しかも若い選手が多いチームで主将の大任を引き受けた吉原には、必死の表情をした「美しさ」があったと思う。
吉原のバレー人生は波乱万丈と言っていい。北海道の妹背牛商を卒業し、名門・日立に入社。そして92年のバルセロナ・オリンピックに出場する。しかしバレーがプロ化に向けて動いたときに、その煽動をしたとして吉原は94年に日立を解雇されてしまう(実際にはそうした活動はしていなかった。彼女は不運な犠牲者といえた)。
日本で活躍の場を失った吉原は、イタリア・ローマで人生の転機を迎える。ローマで彼女は「人生の楽しみ方」を体感したのだ。それまで体育会の枠の中でしか生活してこなかった女性が、イタリアでお酒を交えて食事をしたり、ディスコに行ったりするチームメイトに恵まれ、人生をエンジョイし始めた。それはバレー自体にも好影響を及ぼし、日本の窮屈な空気しか知らなかった吉原は、ローマで人生をリセットすることができたという。
それでもオリンピックへの夢は断ちがたく、96年のアトランタ・オリンピックを前に帰国。メダルは獲得できなかったが、そのまま現役を続行する。しかしシドニー・オリンピックに向けて日本チームは若手中心にチームを編成することを決め、吉原はメンバーから弾かれてしまう。彼女は日本女子バレー界に翻弄され続けたといってよい。
そして2003年。柳本晶一監督が全日本の監督に就任すると、吉原は主将に指名された。彼女のスタイルは率先垂範、普段は6時から個人練習にのぞみ、若手の模範となった。チームの都合で6時に出発する必要がある時は、4時に起きて練習をはじめ、若手を驚かせたという。
日本バレー黄金時代の残照を知る吉原は、自ら模範を示すことで若手の選手たちに日本女子バレーの真髄を伝えているように思える。時には、ちょっと怖いお姉さんになったりしながら。
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