オールボクシングジムの看板








日本にやって来たゲルマン魂
 崔の記憶には、隆盛を誇ったジムの活気と、ダンデイな父親の姿が焼き付いている。
 手元に残る色あせた写真の数々が、記憶の確かさを裏付けている。力道山や日本人初の世界チャンピオンとなる白井義男、無敗のまま引退する伝説の世界ヘビー級チャンピオン、ロッキーマルシアノらと肩を並べたスナップ。派手なリンカーンのオープンカーの運転席で浮かべた笑顔…。
「とにかくお洒落で家のなかには山のように服があった。一日に三回は着替えるんですから」。リングサイドに陣取った父親はいつもパナマ帽をかぶり、ツイードのジャケットにシルクのタイをしていたという。「子供の目から見てもそりゃ、格好よかった」。力道山が父を「アニキ」と呼び、試合のあとでよく訪ねてきたことも覚えている。
 終戦の昭和二十年。その年の暮れに、斎藤は「オール拳」を現在の国際ビルの近くに開設した。「トタン張りで狭い道場やった。夏は入っただけで汗だくになった」と、開設当時のジムにいた高橋義雄は振り返る。高橋は糊の入った缶をぶらさげ、斎藤と一緒に興行のポスターを街中に張って回ったという。
「あの人は『ミナミの顔』やったね。オールの選手というだけで、顔パスやった飲み屋がいくつもあった。時代を先取りする感覚がすごくて周囲はいつも驚かされた」。クライスラーに乗ったかと思えば、ライカのカメラを手にしている。女性関係も華やかで、宝塚の女優とも浮き名を流したという。
 だが、斎藤の人生は「栄華」だけに包まれていたわけではなかった。
 家族と離れ、たった一人で玄界灘を渡ったのは十一歳の時。親戚を頼って大阪へたどりつき、靴磨きや新聞配達などをしながら戦前、戦中を生き抜いた。ミナミの真ん中で開業したカレーショップを成功させるまでは、極貧の生活を味わったという。
 何が父を支えたのか。崔は時折、そのことを考えるが、答えは見つからない。「在日であることを隠さずには生きられなかった時代だけに、父が燃やしたエネルギーは相当なものだったと思います。生きるためだけに無駄なこともたくさんしたと思うけど、その体験をしたことが、僕とは決定的に違うところでしょう」 「肥やしの差ですね」と、崔は付け加えた。学校に行けなかった斎藤氏は日本語も朝鮮語も書くことができなかったという。同胞で、ともに「日本人」として成功をおさめた力道山とは、一体どんな話をしていたのだろうか。
 崔は高校卒業後に「本名宣言」し、東京の大学に進学してからは民族差別の裁判にも関わった。自分は一体何者なのか。「在日」として内面への問いかけを始めた息子の姿を父親は黙ってみていたという。

「オール拳」のオールとは何を意味するのだろう。ジムを復興する時、崔はまずそのことを考えた。 「私なりの解釈」と断りながら、崔は言う。
 「オールは『オール・カインド・オブ・ピープル』のオール。つまり、父は『民族や国籍を超えた本当の強さ』を求めたのではないでしょうか」
 必要なのは、有無をいわさぬ本当の強さだけ。時代の波にもまれ、「日本人」として生きざるをえなかった父は、拳に力を秘めていれば認められる世界に魅かれたのかもしれない。「在日一世の父がオールと名づけたのは、歴史的な必然性もあったのだと思います」
 再興したジムもその思いを継承するように、メキシコ人の元世界チャンピオン、ヘルマントーレスをトレーナーに招いた。練習生は四十人を越え、トーレスを慕ってジムを移籍してきた二人がすでにプロデビューを果たした。
「リングにあがったボクサーには何の偽りもない。無垢な精神だけで作られた極限の美しさがある」というボクシングの魅力に再び触れた今、崔が抱く夢は大きい。
「究極の目標はモハメド・アリのようなボクサーを育てることなんです。ただ強いだけではなく、社会に対してメッセージの残せるボクサーをいつか…」
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