【インタヴューを終えて――素晴らしき体操の世界】

 塚原さんへのインタヴューは、東京都世田谷区にある朝日生命体操クラブの体育館で、選手たちの練習を見ながら行った。
 一階上にあるガラス張りの小さな部屋からは、体操器具がずらりと並んだ体育館内が一望できる。右手のほうで女子選手が床運動や平均台や段違い平行棒を行い、左手のほうで、男子選手が、鉄棒や平行棒や跳馬、それに床運動などを行っている。子息の直也君も練習している。全選手の練習の様子が、手に取るように見渡せる。なるほど、これが「監督室」か……と思っていると、塚原さんが、おもしろい言葉を口にした。
「ホラ、あの子、見てください。いまの技、見ました? 軽く二回転ですよ。すごいですよねえ。あんな小さい女の子が、あんなすごい技を軽々とやってしまうんですから。僕らの時代だったら、できなかったことですよ」  この一言で、わたしの心は、軽くなった。このガラス張りの小部屋は、選手を「監視」する場所ではなかったのだ。そんなことを少しでも感じた自分の不明を、心の底で恥じるほかなかった。  選手の練習には、何人かのコーチがついているように見えた。が、とくに指示を出している様子はうかがえなかった。
――コーチは、練習の指示をしたりしないのですか?
「どういうこと?」
――つぎは、これをしろ、とか、あれをしろ、とか……。
「そういうメニューは、あらかじめ選手に教えてあるので、選手が勝手にやります。コーチは、気づいたことを注意してやればいいのですよ」
――サボる選手はいませんか?
「いませんよ。サボりたいならサボったらいいし、いやならやめればいいですよ。みんな、体操が楽しいからやっているわけで、やらせる必要なんて、ないですよ」
 愚問だった。そのとおりである。それは、わたし自身が、いつもスポーツ評論を書くときに主張していることである。が、コーチの笛の音も聞こえず、叱咤激励の声も聞こえず、選手たちが、次々と「自分の練習」をこなしている風景を見ると、逆に、驚いてしまう。
 塚原氏の語ってくれた話は、ほとんどが「体操の技術論」だった。練習方法に関しても、世界の体操界の情勢分析にしても、日本の体操界の簡単な歴史にしても、どんな話も、すべてが技術論に流れ込む。選手の「自主性」とか、「自律性」とか、「最近の若者の指導法は……」といった話は、ついに最後まで出てこなかった。抽象的な精神論や教育論や世代論は、ついに口にされなかった。が、それらが、まったくなかったわけではない。それらは、体操(スポーツ)の技術論が語られる背後に、確固として存在していた。そのことは、選手たちの練習風景を見ていても、よくわかった。
「自主性? そんなことは……、そんな、あたりまえのことは、あまり考えたことないですね」
 そうなのだ。スポーツを語るときには、スポーツのことだけを、技術のことだけを語ればいいのだ。それで十分なのだ。それだけで十分におもしろく、素晴らしい勉強にもなるのだ。、スポーツから離れた言葉を口にする必要はない。が、一般的には、スポーツから離れて、精神論や教育論や世代論の語られることが少なくない。それは、スポーツを信頼していないからだろう。スポーツの面白さ、スポーツの持つ「力」に気づいていないからだろう。スポーツは、スポーツとして素晴らしい、ということに気づいていないから、「選手に自主性を持たせるには……」といった方向へと話が展開するに違いない。
 塚原さんは、そうではない。体操の技術論を喜々として語ってくださった塚原さんのおかげで、わたしは、体操のおもしろさが、よく理解できた。鉄棒の練習をしている選手を見ながら、合理的に美しく回転している選手と、力を入れてまわしている選手の違いが、少し見えてくるようになった。それは、とてもうれしいことだった。とても楽しいことだった。それまで気づかなかったスポーツのおもしろさに気づくのは、素晴らしく楽しいことである。心が豊かになることである。  インタヴューを終えたあと、体操競技の試合が、猛烈に見たくなってきた。と同時に、鉄棒にぶら下がってみたくなった。
「逆上がりも、蹴上がりも、技術ですからね。身体の使い方さえ覚えれば、誰にでもできるんですよ。そして、できれば、楽しいものなんですよ」
 100キロの体重でも? とは訊かなかったが、塚原さんの言葉だけでも、体操が大好きになった。そうなのだ。体操(鉄棒)もスポーツなのだ。スポーツに楽しくないものなど、ないのだ。
  (玉木正之・記)
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